2011年2月14日月曜日

 奥池は雪景色!
日本中で雪が降っているので、珍しく無いかな?
積雪25センチくらいです。

家の壁が赤いのでクリスマスみたいなヴァレンタインです。

2011年1月14日金曜日

婦人会新年会


今日は教会婦人会の新年会。今までには1度しか出席したことが無いのだけれど、
仲良しのHさんが会長さんなので、ミサのオルガンを頼まれて、出席。
色分けでたまたま座った、お隣の関に、なんと9年前まで一緒のマンションに住んでいた方が。
教会が一緒なのだから、もっとお目にかかっても良いのに、前にいつあったかも覚えていません。
互いの近況など、話に花が咲きました。

お食事の後、全員でじゃんけん大会。
数えていないけれど、60〜70人はいたかしら。
なんと、1番になってしまいました!!
素敵な春色のスイトピーとウサギ模様の便せんセットをもらいました。
春から縁起がいいね!

昨日から必死になって、ブラームスの
Schumücke dich, o liebe Seele
装いせよ、愛する魂よ
を練習して行ったかいがありました。

2011年1月6日木曜日

「妻を看取る日」垣添忠生


明けましておめでとうございます。
12月から、ブログをさぼっているうちに、あまりにもいろいろなことがあって、
ちょっと整理してから、出来ればアップします。
今日は、この冬休みに唯一読んだ本の話。
この本は、数ヶ月前に母から渡されそのままになっていました。
垣添先生は私の父の命の恩人のおひとりです。
今から25年前、私の父は63歳くらいだったでしょうか、
神戸大学を定年退職した直後、肺転移のある腎臓がんに罹りました。
明石の成人病センターで手術不能と言われ、
国立がんセンターに転院したのです。
その時の主治医です。
今から考えると、まだ50才手前のバリバリの働き盛りの先生だったのですね。
でも、静かで無口ででも、患者に対する愛情のこもった先生だった記憶があります。
父はその年、また翌年と2度の転移を乗り越え、
その後、80歳を超えてからも、肺転移の手術をして頂き(このときは先生はもう変わっていました)
今年、88歳になりますが、未だに現役の弁護士として働いています。
あの時の先生の、無口な物静かなご様子、
この本を読むと、なぜか理解出来る気がしました。
それにしても、こんなにも素晴らしい夫婦愛があるものなのでしょうか。
12歳も年上の奥様を、生涯、宝物のように大事にされた姿に感動しました。
がんの権威でおられながら、最後に難しいがんに罹られた奥様を助けられなかった。
その後の、苦悩から立ち直られていくご様子もよくわかります。

2010年12月30日木曜日

Merry Christmas

クリスマスおめでとうございます。

いっぱい書きたい事があった、12月なのに、何も書かない間に30日になってしまいました。
今朝は雪が降っていました。教会に少し用があったので、行った帰りに、今オートバックスでスタッドレスタイヤの交換の時間待ちです。
もっと早くしておけばいいのに、グズグズ考えている間に、今になってしまいました。
今年は、めげてしまい、おせちは煮しめだけにしようと思います。

2010年12月7日火曜日

「いざ来ませ、異邦人の救い主よ」 NunkommdenHeidenHeiland

(教会報12月号に投書した文章です。
急いで書いたのと、ちょっと勉強不足でもあり完全ではありませんが、待降節の音楽に対する思いとして読んでいただければと思います。

待降節の音楽について少し書いてみたいと思います。
このコラール(ルター派の賛美歌)を使って J.S.バッハ は待降節第1主日のためのカンタータを作曲しました。このコラールのもとになったのは、ミラノのアンブロジウス による、聖歌「来ませ、異邦人の贖い主よ」Veni, Redemptor gentium です。
賛美歌 21 による、日本語訳は、次の通りです。

いま来たりませ、救いの主イエス、
この世の罪をあがなうために。 
きよき御国を 離れて降り、人の姿で御子は現れん。
 みむねによりておとめに宿り、神の独り子 人となりたもう。
 この世に生まれ、よみにもくだり、御父に到る道を拓く主。 
まぶねはまばゆく 照り輝きて、暗きこの世に光あふれぬ

このメロディーを使って J.S.バッハは何曲かのコラール前奏曲(コラールのメロディーを使ったオルガン曲)を作 っています。その中でも、特に有名なものが2つあります。
BWV599, オルガン小曲集第1番と、BWV659、バッハ が若い頃に書いたものを最晩年に手を入れて編纂した 17 のコラール集の中の曲です。2曲とも本当にきびしい 曲です。それは、喜びの日を待つための物でありながら、とても内省的なのです。
”オルガン小曲集” Orgelbüchlein(短いコラールが 46 曲、教会歴にそって作曲されている。)の第1番、どの節も上から下へ降りて行 く音型で、降誕を表していますが、曲全体が十字架の音型と言われる(例えばレミシド、などの形)音型で覆い尽 くされているのです。
そして、BWV659, こちらはペダルにずっと、重い歩みのような進行が続きます。救い主が人の罪を負って、受 難まで続く歩みを表しているようです。その歩みの上に、美しく装飾されたコラール旋律が奏されますが、そのメ ロディーの中身も、嘆きのモチーフがちりばめられているのです。

また、グレゴリオ聖歌の主の降誕日中のミサの入祭唱の交唱の中に、

”Puer natus est nobis, ひとりのみどりごが私たちのために生まれた。
et filius datus est nobis: ひとりの男の子が私たちに与えられた。”

と言う節があります。この中の、datus と言う言葉には、単に与えると言うよりも、与えつくす。と言った意味があるよ うです。

「キリストは神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の 身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に 至るまで従順でした。(フィリピ 2:6-8)

これらの音楽は、キリストの誕生は十字架への道の始まりであると言うことを、はっきりと表しているようで、毎年、 典礼歴の初めであるこの時期にこれらの音楽を演奏する時、身の引き締まる思いです。
待降節中の、ミサの前奏に上記の曲を弾かせていただく事があるかと思います。思いを共に、耳を傾けてい ただければ幸いです。

「我らの罪を許したまえ」


フランス人の作家、ロマン・サルドゥが書いた処女作、歴史ミステリー。
題と表紙の絵に弾かれて衝動買いした本です。
13世紀フランスとローマを巻き込む、中世のカトリック教会の話。
3つの関係のない話が、だんだん1つにまとまって来る所は面白い。
でも,「聖杯の暗号」は実在した集団を描いている迫力があったけれど、これは、全部がフィクションのようです。それだけに、中世の雰囲気は味わえるけれど、ちょっと劇画的でした。

グーグーだって猫である 4、5


”グーグーだって猫である”
大島弓子さんの漫画です。
いろんな猫達を観察しているのが、とっても面白いです。
私は基本的には犬飼いなので、あまり猫を観察した事が無かったけど、
猫にもずいぶん個性があるのですね。
ここまで、外猫の面倒をみても良いのかなあ、とちょっと不安は感じます。