2017年5月19日金曜日

父・河本一郎のこと その1

アシジのフランシスコ 河本一郎
商法学者。1923年2月27日〜2017年4月18日
とても個人的なことです。どうしようかと思いましたが、やはり、書き留めておきたいと思います。

父が天国へ旅立ってもう1ヶ月。あっという間に日が過ぎていきます。

父は3人兄妹の長男として、大正12年(1923年)大阪で生まれました。
その頃、私の祖父がどんな仕事をしていたのかは私は知りません。一生のうちに数十の仕事をした人だったようです。父の下には弟と妹がいました。祖父が仕事を転々とするので次の日に食べるお米がなかったこともあったと聞きました。

私が知っている父の話の最初のものは、小学校?時代に、家で働いていた人が父が本を読んでいるのかと思ったら、寝転がって「孫悟空」の本を暗唱していて驚いたと言う話です。
子供の頃のことは、あとは数学が大変苦手で、手と足の指を足しても足りなくなると、もうお手上げだったと笑っていたことぐらいです。

その後、大阪商大に入り、学生時代は第2次世界対戦の末期の頃です。
その時、大阪商大事件に巻き込まれたのです。「監獄に放り込まれた!」とは言っていましたが私自身はよく知りませんでした。父が亡くなってから、祖父母と長く一緒に暮らしていた従姉妹に話を聞きました。別に共産主義思想を持っていなくても本を読んだり持っているだけで、捕まったそうです。祖母が本を庭で燃やしたけれど、なかなか燃えず、間に合わなかったそうです。まさに今、世の中で問題になっている、共謀罪です。
中には監獄で亡くなった方もおられたようですが、なんとか生き延び、Wikipediaでは終戦後に開放されたとありますが、昭和20年の6月ころには保釈され高知の部隊に派遣されたそうです。ただ、終戦近くでもあり、体も小さかった父は、兵隊として並んでも列の後ろの方で、鉄砲もなく、シャベルを担いでいたそうです。終戦まで塹壕掘りをしていたようです。
大変な経験ではあったでしょうが、そのために戦地に送られることがなく生き延びたとも言えるのです。

戦後、大阪商大に戻り、昭和26年(1951年)に京都大学を卒業しました。司法試験に通っても司法修習生としての採用通知がなかなか来ず、その間に神戸大学への誘いがあり、修習生にはならずに大学教師の道に進んだそうです。結局、司法修習の連絡は3月31日に届きましたが、その時にはもう行くつもりは全く無かったそうです。戦後数年経っていたにも関わらず、戦時中に収監されたことが影響していたのではとのことです。
戦争で体制は変わったはずであった時期に、なぜ、そのようなことになったのか、本当に怖いことだと思います。

その翌年に高校教師であった母と結婚して、神戸の下山手に住むようになったそうです。
2人にとっては戦争によって奪われた青春時代が遅れてきた時期だったのではないでしょうか。学生さんとダンスをしたり、食事に行ったりと言う話をよく聞きました。

それからは、生来の生真面目で勤勉な性格でどんどん学問の道を進むことになったようです。
明石市鷹匠町の県営住宅に引っ越し、私が昭和31年に生まれ、母は専業主婦としてその後61年間ひたすら父を支えてきたわけです。
私が幼稚園の頃でしょうか、一度目のドイツ・ハンブルグ大学への留学。その時は私と母は日本に残り、父は貨物船で旅立ちました。船まで従姉妹と一緒に送っていったことは今でも覚えています。

ドイツから返ってくると、何故か30代なのに(水のせいなどと言っていましたが)白髪になり当時小学校に通っていた私が毎朝一緒に登校していると、友達から、おじいちゃんと歩いている、とよく言われました。
小学2年生の時には神戸市垂水区(今の西区)の西瓜畑を買って、家を立てて引っ越しました。その頃から、庭に沢山植物を植えたり、犬を飼ったりするようになりました。
秋田犬のリキと。


コッカー・スパニエルのサム+ラッキーとその子供達と私の友人

犬の子供を産ませたり、秋田犬を連れて散歩に行ったり、兄弟のいない私にとって、犬たちと父との時間は楽しいものでした。

小学校5年の時には父のドイツ行きに一緒に連れて行ってもらいました。
半年間、ハンブルクで過ごしました。その時にヘルムート・ヴァルヒャのコンサートに連れて行ってもらったことが、その後、高校生の時にオルガンを始めることにつながりました。

中学に入る頃に学園紛争が激しくなり、私は幼稚園から通っていた神戸大学附属明石小学校から私立の中学校に行くことになりました。学園紛争を目の当たりにしていた父の判断もあったようです。それと同時に、母は親戚がほとんどいない私にとって、心の支えになる教育をという思いもあったようで、カトリック校である神戸海星に中学高校と通うことになりました。
学園紛争の激しかった時期、なぜか自宅にはよく学生さんたちが遊びに来られました。
兄弟のいない私にとっては楽しい思い出です。勉強を教えてもらったり、お正月には必ず一緒に母の手作りのおせちを食べたりしました。
学生さん達の就職も一生懸命お世話していたようです。相談にみえては長い時間、書斎で話し込んでいることもしばしばありました。

私が高3の時にはまた、両親のみでフランクフルトへ行っていました。
少し羨ましかったのですが、受験生であり、仕方のないことでした。
その時に、二人でイタリアのアッシジに旅行に行ったようです。二人から何度もアッシジのことを聞いていたので、私もいつかは行きたいとずっと思っておりました。
この、アッシジが最後に父が洗礼を受けることの1つのきっかけになるわけです。

全部、書いてからアップしたいと思っていました。
なかなか書ききれず、1ヶ月が経ってしまいました。
そんな今日、どうしてもこの記事をアップしたい理由ができてしまいました。
「共謀罪」の強行採決です。父は第2次世界対戦中にまさに、今回の共謀罪のような形で収監されました。きっと、天国から「おいおい、これはまずいよ!」って言っていると思うのです。

日弁連のリンクを張っておきます。
日弁連は共謀罪に反対します!

次回はいつになるかしら。私が結婚してからのことを書いていきたいと思います。





2017年5月1日月曜日

<祈りと音楽の集い> 〜聖霊降臨の季節に

六甲教会恒例の“祈りと音楽の集い”のお知らせです。
とても楽しみにしています。教会の音楽とともにずっと活躍してこられた
ソプラノの林裕美子さんとオルガンの小榑由布子さんをお招きしています。
どうぞ皆さん、おこしください!